セルフレスキューの目的

 この、レスキュー隊の搬送写真は、1999年10月SHC定例山行、真富士山登山時の事故の現場のものです。

セルフレスキューの目的



私たちの会はこの事故での教訓を生かし、安全に山から帰ってくるための方法を学び、考え、実践します。

セルフレスキューの目的





セルフレスキューの目的 

  消防署の応急手当普及員再講習を受講した。更新は三年毎で、平成十四年に認定された私は五回目の講習となった。これくらいの間隔なら手順は大体覚えていられるが、心肺蘇生の方法などは大体隔回毎に変更されることになる。今回は『JRC蘇生ガイドライン2010』に基づいた講習で、呼吸確認と人工呼吸の簡略化、胸骨圧迫(心臓マッサージ)の一刻も早く確実な(強さ、速さ)実施が求められ、例えば

①呼吸を確認するときに気道確保を行わない
②人工呼吸より優先して胸骨圧迫から心肺蘇生を開始する
③胸骨圧迫の深さを「少なくとも5㎝沈むよう」に変更
④胸骨圧迫のリズムを「少なくとも毎分100回」に変更などの点が変更された。

 こうした変更は、もちろん最新の研究や治験を踏まえてのものだが、前提としているのは119番通報すれば救急車が来る(全国平均で約8分)という日常生活であり、また急性心筋梗塞や脳卒中といった内因性による心肺停止への一次救命処置が主要な事柄である。これが山という場所や大災害時であったらどうかということは、いつも考えさせられることだ。ガイドラインを踏まえて、山の中では何ができ何ができないのか、言わば非日常的な空間での判断の複雑さや難しさを痛感する。

つまり、日常的な場では救急車(隊)に引継ぐまでの救命処置という目的の明確さと、限られた短時間の対応であるのに対し、山では自身の対応の目的をどこに置くのかを、傷病者の状態や自他の状況に応じて判断しなければならないし、その目的を達するまでに長時間を要することになる。加えて救助者が被るリスク(二次遭難の可能性)も大きなものがある。敢えて言えば、非日常的な場での一次救命処置は絶望的なくらい困難だろうと思える。大災害時においてトリアージ(治療の優先選別)が行われるのも、同様の理由からだろう。

 ある救急蘇生法関連のブログに次のようなことが書かれていた。

 救急蘇生法講習を行う上で問題となるのは、それを学ぶことの動機、モチベーションということ。一番難しいのは、医療従事者や救助隊といった職業義務者や、家族や親しい者を助けたいという自然な感情ではなく、バイスタンダー(その場に居合わせた人)として救護に当たろうとする人。「仕事」として救助に当たる、あるいは家族を何とか助けたいという「大義名分」があればいいが、バイスタンダーによる心肺蘇生やファーストエイドには、実は明確な理由や動機がない。ドラマや映画にあるようなヒロイズムで、気持ちと物資の準備なしに取りかかると後悔する場面が多いかもしれない。
日本の応急処置普及の現場を見ると、大半が「善意」や「隣人愛」を前面に出しているが、米国では「職務中は救護に当たる義務がある。しかしプライベートでそのスキルを使うかどうかは任意」とし、リスクを踏まえた上で覚悟を決めて臨むものであり、助けないのも選択肢だとしている。心肺蘇生やファーストエイドを崇高なものとして高みに置くのではなく、その現実を伝えるという点では日本にないスタンスである。

 つまり心肺蘇生やファーストエイドは、きれいごとではないということで、これはしっかりと自覚しなくてはならない。一方で私たちは、備えなければならないスキルとして「セルフレスキュー」を掲げる。それは、第三者としてのバイスタンダーではなく、当事者としての「セルフ」なのだろうと考える。私たちはけして「島崎三歩」ではない。自分自身と仲間(これも情緒的な言葉だが)が、楽しく山に行き、帰ってくる、このことの覚悟の表明としての「セルフレスキュー」なのである。私はそこにモチベーションを求める。山のセルフレスキューの究極の手段は、事故を起こさないこと、そのために事前の備えを万全にするという当然のことに尽きるのであり、毎年の研修会はその意識付けが最大の目的であることは言うまでもない。トラブルやアクシデントを、事故・遭難に発展させないためには、私たちがどれだけ準備をしたかに掛かっている。【元】
会報やまびこNO・210(10月号)【巻頭言】転写

SHC広報



2014年10月22日 Posted byこだま at 08:00 │Comments(0)未分類

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